くも膜下出血で命を取り留めた母。水頭症と髄膜炎で神様が見えるように

生命、生と死に関して、人生で一番つらかった事、また考えさせられた事をのべさせて頂きます。

 

もうすぐ六十歳になりますが、この年齢になって思う事は、大病もせず(抱えているものはありますが)、また生死にかかわる事故(崖から車ごと転落はしましたが)からも免れた事です。

 

正式にいうと、危険な目にはたくさん遭遇したが、命は助かったという事です。

 

人は若い年齢層の時は、病や死というものは認知しているものの、それが自分にはすぐさま直結しないと考えていると思います。

 

私も若い頃はそうでした。時間は永遠のように感じられ、見るもの触れるもの、すべてが新鮮でした。

 

しかし歳を重ね、病や死というものが現実的なものとして捉えられるようになると、見るもの触れるものが、なぜか色あせて見えてしまいます。

 

記憶にしても、なぜか過ぎ去っていった遠い昔の事が鮮明に蘇ってくるようになりました。懐かしく切ない想いです。

 

人には必ず終わりの時が訪れます。死にたくないと思っても、否応なしに人は旅立たねばなりません。

 

生と死に関して、今まで人生で一番つらかった事、それは母が七十四歳の時にくも膜下出血で倒れた事です。

 

それが発症する七日程前、頭が痛いと母がうずくまりました。

 

その時はそれですんだのですが、七日後、頭が痛いと激痛を訴えました。下痢をし、吐き、異様な雰囲気でした。

 

もしや脳の病気では?

 

という想いが頭をよぎりましたが、一晩様子を見る事にしました。

 

夜が明けて、私の心臓は早鐘のように鳴り始めました。

 

呼びかけても反応がなく、唇が乾き、その口は半開きになっていました。そして何より瞳が乾いていました。死人の表情でした。

 

十三年間葬儀の仕事に携わり、毎日のように御遺体を見てきた私には、それが緊急事態である事が即座に解りました。

 

死んでいるかもしれないし、死にかけているのかもしれない、いずれにしろ、その二つのうちのどちらかという事が明確に理解できました。

 

急いで救急車を呼び、私も同乗して救急病院へと向かいました。

 

K病院に向かいます」

 

(えっ……K病院?)私は心の中で呟きました。

 

葬儀の仕事をしていた頃から、このK病院というのは評判が悪く、いい噂は聞かない病院で、医療関係者でさえ、あそこだけは行きたくないと口にする病院でした。

 

しかし、ここで奇跡が起こります。救急隊の方が、「S病院に変更します」と言ったのです。

 

私はこの段階で、S病院というところが、どんな病院かは知りませんでした。解っていたのは都市部にある巨大病院である事だけでした。

 

実はこの病院は、脳神経では実力のある先生方が集結している病院であったようです

 

都市高速でその病院まで行くと、病名と病状を説明された先生は「助けられないかもしれません」と言われました。

 

昨夜発症して、あまりにも時間の経過が有り過ぎるからであったと思います。

 

手術は昼からという事で、私は母の布団や荷物(布団ごとストレッチャーで搬送されたので)を抱くように持って一旦家に帰る事にしました。

 

福岡市内を走る西鉄バスではなく、唐津方面へ向かう昭和バスに乗り込みました。しかしそのバスは思っていたバス停にはとまらず、考えていた場所よりも5km先で止まりました。

 

私は重い布団や荷物を持って一人海岸沿いの道を自宅へと向かって歩いていきました。

 

もっと早く昨晩のうちに救急車を呼んであげればよかった、ごめんね、ごめんねと泣きながら歩いて帰りました。

 

その海沿いの道は、私が幼かった頃、母に連れられて母の実家(さと)に行く時にバスで通る道でした。

 

手術は何とか終わりました。

 

翌日、病院へ行くと、母はベッドを半分起こして水を飲んでいました。

 

まだ意識は戻っていないと思っていましたが、意識もはっきりしていました。これが二度目の奇跡です。

 

先生は患者の家族に「助けられないかもしれません」とあらかじめ言うのかもしれませんが、あの瀕死の状態で、あれだけ時間が経過しているにもかかわらず、翌日には何事もなかったように起き上がり、水飲みの器を両手で握り締め、口元に運んでいる姿を見た時は、驚愕したものです。

 

その後、母は手術には成功したものの、おかしな事を口走るようになりました。

 

「今日はカレーばつくったれす。食べて行きなっしぇえ(いきなさい)」

 

……夢を見たのだろう。

 

私は毎日病院へ行きましたが、「カレー食べたれすか?」とまた聞きます。

 

そのうち、「もう一人の〇〇(私)はろこ(どこ)行ったれすか?」とか、年齢を聞けば「二十一れす」というし、亡くなった父・母・兄がカーテンの上の隙間から心配そうに覗いていた、と言い出しました。

 

退院して自宅に戻ったものの、私が12人いるとか言動に異常をきたしていました。

 

母は水が頭に溜まる水頭症と髄膜炎を併発しているとの事で、再度入院して再手術する事となりました。

 

二度目の手術で頭の水を体外におろす器具を埋め込まれた母は、その後、後遺症もなく元気に過ごしました。

 

普通なら助かっていなかった可能性もありますし、助かっても、寝たきりになったりするものです。

 

ここから不思議な事が起こるようになりましたし、また奇妙な事を言うようになりました。

 

私が12人いるとか、おかしな事を口走った事は何も記憶していないのですが、亡くなった父・母・兄がカーテンの隙間から心配そうに見つめていたと、まじめな顔をして言いました。

 

更には、一度目に退院して自宅にいた時、母が病気がなおらないと泣いていた時、亡くなった母親が来て、段差のある所に腰掛けて「泣かんでもいいとよ」と、慰めてくれたそうです。

 

またくも膜下出血を発病した時、亡くなった父が来て、「こらあ大事(これは大変な事だ)ぞ、早く病院に連れて行かな」と言っていたそうです。

 

勿論、私には見えませんでしたし、何も聴こえませんでした。

 

その後、母は神棚の神様が見えるようになりました。

 

この神様は、私が幼い頃、親父に連れて行ってもらっていた山中にあるお稲荷さんで、私はその神社からお札を求め、神棚に祀っていたのです。

 

祀ったはいいが、私は神棚の戸を閉め、何もお世話倭しませんでした。

 

母は、こんなことをしてはいけない、ちゃんと場所をかえてお祀りしなさいと言っていました。

 

然るべき場所に安置し、扉をあけてお祀りしたその翌日か二日後、神様が「降りてきんしゃった。うれしそうに踊りよんしゃった」と言いました。

 

それから、母が神棚を覗くと、いつも笑っていらっしゃるそうです。

 

神様は三人いらっしゃるそうで、みなやさしそうなお顔立ちなのだそうです。たぶん女の神様と思い、お神酒を差し上げる時は甘口やお菓子をお供えするようになりました。

 

ただ現在、経済的に困窮し、お供え物も充分な事ができない為、炊いたご飯と水や油揚げを私が出勤前と帰宅してからお供えしています。

 

場所を移し、扉をあけるようにしつこく私に言っていた母を、三人の神様は大好きなようで、私が留守の間、母と家(賃貸の部屋)を守って頂いているように思います。

 

その現在八十八歳の母も、年齢的なものも手伝って、いろいろな病気で入退院を繰り返し、今現在、年齢による肺の機能の衰え、慢性閉塞性肺疾患(COPD)にかかり、急激に弱り、今度の検診で入院確実の状況です。

 

死が苦しみを伴わないのなら、それにこした事はないのですが、死には苦痛が伴うようです。

 

私が五十半ばあたりであったと覚えています。

 

私は徐々に体の異変を感じていました。

 

何か気分が悪い……そう思っていると吐き気が起こり、頭がくらくらしてきました。ふらふらと寝床に移り、横になると視界に映る部屋の中が、ぐるぐる回っているのです。

 

吐き気は以前おさまらず、脳の異常かもしれないと判断した私は、このまま逝く事になるかもしれない、そう思ったものです。

 

十年前には年下の従弟(男性)を、そして最近では、やはり三歳年下の従妹(女性)を亡くしました。

 

当然ですが、これまでいろんな葬儀に赴きましたし、何より自分が十三年間葬儀の世界で働いてきました。

 

この歳になって思う事は、家族・兄弟姉妹・親族というものに対して羨望の思いを持つようになった事です。

 

私には兄弟というものがありません。父方の親類とは付き合いがないし、母方の親族との付き合いだけです。

 

それもお盆や親族の葬儀で顔を合わせる程度で、私がもっと年老いて、入院しても、亡くなっても、誰も解らないし、天涯孤独のまま、福岡市の無縁仏として荼毘に付されるだけです。

 

家族が在ったらよかった、兄弟姉妹がいてくれたらよかったと、最近は寂しい想いに浸る事が多くなりました。

 

年齢を重ねれば、体力は衰え削がれ、気力も枯渇してきます。これは間違いなく誰にでも訪れます。

 

私はこの先独りで生き、そして一人で死んでいく身ではありますが、やはり老人ホームに入るべきか?とか、いろんな場所の老人ホームを夕陽に照らされながら見つめ、自分があたかもその施設に入って、過ごしている情景を思い描いたりするようになりました。

 

親族の葬儀でもお盆でも、各家庭にはあたたかな情景が見られ、家族はいいな、俺も娘が欲しかったなと、羨望の眼差しになると共に、ふと寂しさを覚えたりします。

 

人間、生まれてくるときも一人なら死んで行くのも一人だとは言いますが、若い時は強気であった私も、年老い、人生時間の晩秋あたりに差し掛かると、静かに、そして深く物事を考え、おだやかな最期を迎えたいものだと考えたりします。

 

残された時間は確実に短い、その限られた時間を有意義に過ごす為に、私は心の残り火を消す事なく、歩いて行こうと想っています。

 

小説を思いっきり書きたい!

納得の行く作品を残したい! 

福岡から隣県の唐津までの50kmを徒歩で踏破したい!(30kmまでは達成しました)

古代史の研究をまとめたい!

自分が歩いてきた人生を振り返り、またその場所を訪れてみたい。

 

いろいろな想いが死を意識する事で明確化してきます。

 

ただ、この人生に於いて、時間は有限です。始まりがあれば必ず終焉が訪れます。

 

比叡山延暦寺に伝わる〔不滅の法灯〕の如く、私は最期の時まで心の炎を燃やして生きて行こうと考えています。

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