人の死を悲しむのは、自己憐憫のため。霊は死後の世界に帰れて喜んでいる

私は、産まれてから今まで辛くないと思ったことがありません。辛かったと言えば常に辛かったです。

 

どれが一番勝と言われても、常に「またか」という苦しみですので、一番も決められません。

 

生と死に関すること、ですか。

 

私は親しい人と死別したこともありませんので、特にそういうことで辛かったと思うことはありません。

 

ペットの猫が死んだことはありましたが、その頃、私は死後の世界がどうなっているかを調べまくり、完全に信じ切っている状態だったので、全く傷つきもしなければ悲しくもありませんでした。何故なら、死後、また逢えると信じ切っているからです。

 

他人の死を悲しむのは、その霊のためではありません。

 

自分が寂しいとか、自分の所有欲が満たされないとか、そういう自分勝手な気持ちで悲しむのです。

 

その霊は自分の死を悲しんでほしくはありません。むしろ、死後の世界へ帰れて喜んでいます。

 

霊は悲しまれると迷惑なのです。現世に残された人は、ただ自己憐憫のために悲しむのです。

 

そして一般人は、全く悲しまない私とか@@@@のような人間を、薄情者と呼ぶのです。

 

死後の世界は、現世よりはるかに幸せな世界だと思っています。

 

だから、私は現世にいるより死後の世界に早く行きたいと思っています。

 

霊性進化は20世紀までのスピリチュアリズムにおける迷信だと思っております。

 

人はただ、個我でいることに興味を持つために現世に来るのだとアニータは言います。

 

または、神の未熟さを自ら請け負い、仕方ない気持ちで嫌々ながら現世に来る魂が80%以上で、現世に来たくて来る魂は20%以下だという説も耳にしたような気がします。

 

これは現世を事故で出来た悪の世界とするグノーシス主義の方が正しいということだと思います。

 

もっとも、20%の人は来たくて来るわけですから、その人にとっては20世紀までの霊性進化論が性に合っているのかもしれません。

 

80%の人はグノーシス主義の方がしっくり来ると思います。

 

現世を魂の修行の場である、絶対に生きぬかなければならないと思う、それこそが教条主義的で強迫観念的なのではないでしょうか。

 

ならば、なぜ私は自殺せずに生きているのか。

 

それは、ただ単に安楽死の方法が分からないからです。苦しくて死に切れません。

 

スイスやオランダでは麻酔による安楽死が認められていると言いますが、末期的病気でなければなりません。

 

私のはただの発達障害ですから、それも叶わないのです。

 

だから、生きる方向でやるしかないわけです。

 

ならば、せめて経済的自由を手に入れて、穏やかに暮らしたい、そういう願いがあるわけです。

 

松田さんの動画をあちこちつまんで見ましたが、どうやら霊性進化とか、生き抜くことが重要、自殺はタブーという、20世紀のキリスト教スピリチュアリズムをそのまま踏襲していらっしゃるように見受けられました。

 

私は、その立場も良いと思います。私はありのままの自分を生きれば良いと思っていますから、松田さんがどのような思想であっても、そういう生き方も良いと思います。

 

ありのままの自分を生きるとは、タブーとか霊性進化とか、そういうルールさえ一切存在しないということです。

 

究極的には、自殺したければしてもよいということです。

 

そもそも、生まれたのは神の尻ぬぐいのためにであって、自分の責任で生まれたのではないと思っているからです。

 

神は自分自身だと言いますが、だったとしても、それが未熟であることは私の責任ではありません。

 

私の潜在意識に、どんな思惑があるのか私は知りません。

 

私は顕在意識でしかないからです。

 

夢遊病でやったことに責任がないのと同じで、潜在意識の責任を、顕在意識である私の責任とされるのは理不尽です。

 

私はそのような思想で生きておりますが、ビジネスのために、20世紀のキリスト教スピリチュアリズムが必要であるならば、一時的にマインドをそれに合わせることは出来ます。

 

長い間、私もそれを信じていましたからね。

コメントは受け付けていません。