難聴で左耳が聞こえない。高校の野球部で耳鳴りがするほど殴られ鼓膜が破けた

 私は生まれながらにしての体の障害などは、幸せなことに有りません。

 

健康に生んでくれた両親へ感謝の気持ちです。

 

コンプレックスに感じていたことも一つ一つ解決して来たと言うか、自分は自分と考えられる様になり無くなって行きました。

 

子供の頃は鼻の穴がでかい、目が細い、背が小さいなど有りましたが、身長の方は14歳の時1年で20cm以上伸びたことで解消しました。

 

現在は生まれながらではなく、高校生の時に負った怪我が原因で右肩の可動域に制限が有る事と左耳の難聴が有るくらいです。

 

その怪我の原因と、難聴になってからの事を書かせていただきます。

 

私は以前にも書きましたが、小学5年生から25歳まで野球を続けてきました。

 

野球が好きで好きで甲子園を夢見て地元の強豪高ヘ進学し、当然野球部に入ったわけです。

 

昭和55年当時はまだ、「水は飲むな!」の時代でしたから、毎日何人も倒れている様な後景が当たり前でした。

 

また先輩との上下関係も大変厳しく、1年生は奴隷、2年生で人間、3年生天皇、監督は神様と教えられ、絶対服従の理不尽極まりない世界でした。

 

監督は不甲斐無い試合であったりミスをすると殴る、倒れるまで走らされる。

 

先輩はその欝憤のはけぐちの為、下級生に集合かけて説教と称する暴力です。

 

もうやりたい放題で今では考えられないですね。

 

それでも「自分は野球が好きなんだ」「逃げたら野球を出来なくなる」「両親を悲しませる」と自分に言い聞かせて耐えていた訳です。今思うと完全にいかれてます。

 

夏の大会が終わって3年生が居なくなり、2.3年生の新チームでの練習が始まった頃です。

 

私は3塁主の控えになり毎日ノックを受けていました。

 

3塁線への打球へダイビングして飛びついた時、右手を付いた所が悪かったようで「ゴリ」と言う嫌な音がしました。

 

それ以来右腕に力が入らず、ボールを投げる事もランニングで腕を振るだけでも激痛が走るようになってしまいました。

 

今の様にCTやMRIなど無く、スポーツドクターと言われるような医者も居なかった頃なので、町の整形外科から大学病院までたらい回しにされ、それでも原因が分からず、挙句の果てに仮病だとまで揶揄されました。

 

大好きな野球を出来ないつらさに加えて、仲間が離れていく寂しさや初めて味わう挫折感から、死んでしまおうかと本気で考えていたのを思い出します。

 

当時スポーツドクターの走りのような医者に出会ったのは、ゲガから4ヶ月くらい過ぎてからでした。その先生は腫上がる右肩を見て、初めて脇の下からレントゲンを取ることを提案してくれました。

 

通常とは逆からの撮影です。

 

すると右鎖骨と右肩の付根、右鎖関節の脱臼、おそらく靭帯も切れているだろうとの診断でした。

 

手術すれば回復は早いけど野球選手の利き肩だからメスを入れずに直そう」と言うことになり、それから半年近く入院、リハビリを続けました。

 

どうにかボールを投げれるようになり、25歳まで野球を続ける事はで来ましたが、それ以来腕を大きく回すことが出来ず完全に腕が上に上がりません

 

難聴になったのはやはり高校時代です。

 

先に書いたように毎日殴られて居る状態でしたので、気が付いたら左耳が聞こえず医者に行ったら「何でこんなになるまでほったらかしていたんだ」と怒られました。

 

しかしいつも耳鳴りがするほど殴られていたので、いつ鼓膜が破けたのかさえ分かりませんでした。

 

治療のおかげでわずかに聞こえるようなりましたが、電話などは右耳でないと聞き取れない状態です。

 

左側から話しかけられても気付かないことが多く、人から無視するなとか嫌な思いをさせてしまう事がありますが、今ではあの地獄の日々を恨む気にもなれず、忘れてしまいたい過去です。

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