人のエゴ!?人を大切にすることを忘れがち。訪れる死に向かって想像するべきです

松田様こんにちは

 

死についての思いは家族や若くして死んだ友人など色々な思い出はあります。いつも思うのはもう故人の笑顔が見れない事や話し声が聞けないことに悲しみを感じます。

 

そこで同時に思うのは、もしもわたしが死んだら同じように皆も悲しんでくれるのか?

 

たとえば、私が不慮の交通事故か突発性の疾患で死んでしまったとして何人の人が私のために集まってくれるだろうか。

いったい何人の人が、私を惜しんで泣いてくれるだろうか。

わたしを惜しみながら思い出を語りながら、別れの言葉を言ってくれるだろうか。

私の遺影のまわりには、いくつの花が添えられるのだろうか。

私が今大切に思う人々は、私が死んだことを、どれくらい惜しんでくれるのだろう。

 

そしていまあらためて、私はいま生きている自分の大切な人が死んだあとのことを思います。両親、妻、友人など死んでしまったら、どう思うのか。

 

日常的に会う家族には全く「死」に対するイメージがまったくと言っていいほどわきません。

 

朝のおはようから始まり、一日をそのまま過ごし、そして夜にはおやすみで一日を終える毎日に「死」の単語はどこにも入り込める余地はありません。

 

また、恥ずかしいはなし交友関係が多い方ではないので、少ない友人の事はとても大切な存在です。そんな友人の「死」を想像するだけで胸が苦しくなります。

 

それを、大切な家族や友人をわたしの身勝手な想像より「死」から遠ざけています。

 

それはどういう意味かと言えば、そこに居て当たり前とし、いつかは居なくなるかもしれない事に目を閉ざします。閉ざすことで大切なひとを実は大切にしていない身勝手さがそこにはあります。

 

人は心許した相手によく本音を言います。それは本音だけならいいのですが八つ当たりもしてしまいます。そんなことが出来るのは、今まで何度もケンカなどしてもまだ一緒に居られる自信があるからです。

 

たとえ言いたいことを言ったとしても、なんの根拠もなく勝手に相手が許してくれると思っています。

 

そこには人のエゴがあり大切な人を大切にすることをつい忘れてしまいがちになります。本来はいとしい人は一緒にいる間、いつか(たとえ病気ではなくても)訪れる死に向かって大切にしなくてはなりません。

 

それは、もしアノ人が死んだらどうなるのだろうか?自分の死の想像と合わせてすべきことなのです。

 

きっと、その時が突然やってきたとしてもその人と大切に時間を過ごすことが出来れば、後悔することはないと思っています。

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