間欠性外斜視で、時々片方の眼球(黒目)が外側を向いてしまう障害がある。

自分は産まれつきの障害というよりは、劣悪な家庭環境によって発症した障害の方が多いと思います。

 

人格障害の両親と継母と、その人達に虐待された姉達、その全ての人達から精神的・肉体的虐待を受け続ける子ども時代でした。

 

父は突然別人のように激昂する所があり、そのトリガーが分からない幼い自分は、いつもビクビクしながら生きていました。

 

普段は笑うことも多くて父のことを「大好きだったはず」なのですが、気が付いたら距離感がつかめなくなっていました。激昂されるのが嫌だし、引き金を引きたくないので話しかけられない。

 

「思ったことを正直にいいなさい」と言われて、正直な意見を言ったら物凄く怒られたので、正直な意見を言えなくなった。常に姉達の監視や脅しがあったので、姉達が裏でやっている事も言えなかった。

 

以上のような理由があったので会話そのものが成立せず、話そうと思っても言葉が出て来ずに涙が流れてしまっていました。すると決まって「男のくせに泣くんじゃない!」と怒られました。

 

必死の思いで涙を止めるのですが、誰にも理解してもらえない苦しさと寂しさをどうしていいか分からず、ただただ切なさに耐えるしかありませんでした。

 

そしていつも決まって、「誰のお陰で雨風しのいで寝泊まりできて、ご飯が食べられると思っているんだ!感謝しろ!」と言われ続けていました。
ですので当時の自分の心には、ただただ自分がダメ人間であるという自己否定の思いしか湧きませんでした。

 

でも産まれた時からダメ人間とか、産まれた時から殺人鬼なんて、この世に存在する訳無いですよね?産まれた時は誰しも、真っ白な状態だと思うんです。

 

なのに「自分がダメ人間だと思う人」とか「自分が愛されている人間だと思う人」とかが存在するのは、生きている「環境」が違うからだと自分は思います。

 

悪い環境で生きるのはある種、「新興宗教の洗脳」と同じ事だと言えます。ですので「自分の置かれている環境がおかしい」という事に、少しでも早く気付く事が洗脳を解く鍵だと思います。人は環境が変われば良い方にも悪い方にも、いくらでも変わリますからね。

 

継母に関してですが、この方は父にバレないような虐待を平然とやってのける人でした。暴力を振るったとしても、見た目で分かるような場所は狙いませんし、傷がつかないようなやり方をよく知っていました。

 

あまりにも酷かったのである時、自分は怒りを抑えきれなくなったのでしょう。
思いっ切り継母を睨みつけたようです。「ようです」と書いたのは、自分自身その時の記憶がハッキリしていないからです。

 

「・・・・」
「・・い・・・」
「が・・悪い。」
「・・目つきが悪い。」

 

遠くの方から会話の語尾だけが聞こえたような気がして、ふと我に返ると「目つきが悪いから直せ!」と言われているのです。

 

でも自分自身、目つきが悪いという自覚が全くないのです。きっとこの時、自分の意識はなかったと思います。記憶も残っていません。

 

そして、まだ身体がしっかり出来上がっていない幼児期に、ありったけの力で上目遣いで睨んでいたのでしょう。気が付いたら間欠性外斜視になっていました。

 

通常の人であれば、眼と眼を合わせた時にしっかりお互いの黒目と黒目を見れるのに対し、外斜視の人は片方の眼球(黒目)が外側を向いてしまうんですね。そして「間欠性」とあるように、常時ではなく時々そうなります。

 

ですが子どもというのは正直ですし、大人のような気遣いも知りません。幼稚園や小学校に行くと、素直な意見を投げてきます。

 

「○◯(自分の名前)、どこ見てるの?」
「○◯ってさ、どこ見てるのか分からないよね。」
「なぁ、俺の目を見てみてよ。」等と言われました。

 

彼等が自分を馬鹿にしようとして言ってない(中にはそういう人もいましたけど)のは重々分かっています。

 

「純粋な疑問として言っているのだろう」と予測も出来ますが、言われている自分は本当に嫌でした。

 

好きで間欠性外斜視になってる訳でもないのに、(どちらかと言うと目立たないように気をつけて)普通にしているのに、その話題になるのが本当に嫌で嫌でたまりませんでした。

 

それ以来、人の目を見て話すのが苦手になってしまいました。

 

人の目を見ると、「またあの話題になるのではないか」とビクビクし、「今は外斜視になってはいないだろうか」とか考えてしまうのです。

 

そんなある日、道徳の授業中に先生が「人の目を見て話せない人は、心にやましい気持ちがある人です。」と話しているのを聞いて愕然とし、「親だけでなく、先生も自分の気持ちを分かってはくれないんだな。理由も聞かずに一方的に決めつける、大人って一体何なんだろう。」と大人への不信感だけがつのっていきました。

 

普通の家庭や家族というのは、子どもにとっては安全地帯なはずです。
仮に学校や友達とトラブルになったとしても、家に帰って家族に話したり、例えその話題に触れなくても一緒の時間を過ごす中で「自分は1人じゃないんだ。自分は家族に愛されているんだ。」という安心感に触れる事によって、また次の日からも元気に家を出られると思うんです。

 

けれど自分は家族にそういう感情を抱いた事はなく、愛された実感も分かりません。家にいるよりも、学校にいる時の方がリラックスしていました。
突然キレられる事もないですし、理不尽な理由で責められる事も、家に比べたら無いと言えますから。

 

自分の存在価値を否定され続けながら生きていると、自己肯定力なんて全く育ちません。しかも自分がその事に気付いたのは、もうすぐアラフォーからアラフィフに移行しようかという、本当につい最近の話です。

 

ずっと以前から漠然とした「生き辛さ」は感じていました。けれどそれを人に話しても理解出来る人がおらず、もちろん比較する事も出来ませんでしたが、最近やっと分かったのです。それは「愛着障害」という症状でした。

 

親や姉達は、自分にとって血を分けた家族なはずなのに何も感じられない、自分は酷く冷徹な人間なのだろうかと悩んだ事もありましたが、自分が愛着障害という事を知って少し安心しました。

 

社会人になって父親に言動が似た人に嫌悪感を抱いたり、職場の人との距離感が分からなかったりしたのも愛着障害から来るものであり、自分に人間として落ち度がある訳ではないと知り、とても安心しました。

 

病気だと分かったのなら、適切な対処をすればいいだけの話ですからね。

 

それからは自分のインナーチャイルドを癒やしたり、出来る範囲内で心理学を学んだりアファメーションをしたり、お金をかけれない現状なので自己流で立ち向かっています。

 

お陰様でかなり改善してきましたし、自己肯定力も少しずつ育ってきました。

 

「アフィリエイトに挑戦しよう」なんて、一年前の自分だったら絶対に思いませんでしたよ(笑)
最初から「どうせ俺には出来ないよ。」と決め付けて、猛スピードで出来ない理由探しをしていたと思います。

 

そんな中で松田さんの動画に出会いまして、自分が体験を通して学んできた事を無料で教えて下さっていたので「この方は本物だ!」と思い、さらに学びを深めさせて頂いています。本当にありがとうございます。

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