窓建材会社に就職しシンガポールでアルミ窓の生産と販売に10年かけ現地でトップシェアに

初めまして、@@と申します。以下のことは、私の略歴で1976~2009年迄の記録です。

 

卒業後〇〇〇と言う窓建材会社に就職し、4年後に念願の海外、シンガポールにて現地でのアルミ窓の生産と販売に日本人3人で取り組みを始め、10年かけて現地ではトップシェアになれました。

 

華僑相手に商売をするのが初めてと、市場が分からない事もあり、最初の2~3年はお客を訪ねて窓で困っている事の相談(雨漏り等)から始め、問題の原因と提案をまとめて提出しているうちに、徐々に次のProjectの相談をしてもらえる様になり、少しずつ営業から工事現場の管理のキモ、等迄を学び、最終的には政府住宅公団に信頼され特命(業者指定)で継続的物件受注に至りました。

 

10年経った頃に、前任者の社長が帰国になり私が引き継ぐ事になり、念願の現地化(脱日本人による経営)を進めましたが、お客の倒産等があり会社はその3年後に5億の赤字に転落。

 

責任を取って辞める事も考えましたが、やりかけの現地化を引き継ぐには早すぎた事もあり、後3年の命と決め更に現地化を進め、エンジニア等を増やし現地のことは現地で発想しお客と一体化して開発する流れを作り、予定通り途中1年ほど日本で勤務した後に退社しました。

 

退社の理由は、自分の想いと会社の方針の違い。発展への再投資(人、もの、金)を積極的にするかどうかの違いです。(ここまでで16年経っています)

 

退社後、シンガポールで起業し、The BeatlesのJohn Lennonにあやかり、I社設立(これからはイマジネーションの時代、自由にイマジン出来る国を作れればイイな、と思い社名を決定)

 

ところが、退職金程度では何も出来ないので、日本向け建材輸出業、マーケティングコンサルタント、日本企業の海外進出のアドバイサー等々に取り組み、あの大前研一さんのビジネス塾の海外遠征ではシンガポールやミャンマーでのセミナーを段取りした事もありました(かなり暇だったので)。

 

その頃、Y社(不動産会社担当)の元仲間から、販売予定の大型コンドミニウムを買ってくれないかとの話があり、信頼する前の顧客達(現地建設会社)と組んで大量購入をして、1/3の70戸(邦貨で21億円程度)を仮発注、内1/3を仲間内で即転売し1億強の粗利を稼ぎ、それを自社分残り2/3の頭金に充てて購入し、それらの1/3を即転売、1/3を1年以内に、残りは2〜4年保有(税金対策)最終的には5億円程の利益を上げました。
 

そのままで充分平和に暮らせたのですが、会社時代にもっといい窓を開発したかった夢の資本金が出来たぐらいの感覚で、イタリアの会社と合弁で窓会社を設立し、5年で15億円程の累積受注をあげました。
 

ところが、当時(2003年頃)は米国のIT不況がSingaporeを襲い、不動産〜建築業はどん底に落ち込み支払いが遅れた事もあり会社(合計7社)も清算し(実質は倒産)又、元の無一文に転落。

 

家も自家所有から賃貸生活になり、マーケティングの再勉強(神田さんやマンチェスター戦略)をしつつ、資金が無くても出来、支払いの心配が無い日本企業のオフィスの改装業を始め、ギリギリの生活費を稼いでいました。

 

ここまで(1976~2009) のまとめ。Y社という国際企業でありながら社員の自由度が高い社風であったので、管理される事が嫌い(苦手)な私とは相性が良かったので、3年ぐらいで辞めるつもりが20年以上も勤められ、プラス海外経験がなりよりの財産(人脈、華僑の価値観、商売の常識,等)になり、Y社には感謝してもしきれない程の恩義を感じている。

 

在籍した会社の赤字の原因と独立起業した会社の倒産『原因と教訓』
  

1)しっかり足場を固める事なく、先を急ぎすぎた結果、協力会社の倒産(経営状況の把握)を予測できなかった事、周りに厳しく注意をしてくれる人を置かなかった事。

2)営業能力の劣化(独立起業後)大型すぎる物件(12億円)を受注した為その金策を含むやりくりに明け暮れ、新規受注に向かう余力体力がなかった事。
   
  <<小さなボートが巨鯨を釣った様なものでした>>

3)自分には経理や財務への興味が少なく、スキルも無いまま、マーケティングだけで起業し身の丈に合わないプロジェクトの受注に走った事

4)その遠因は、経理関係の人材を重視せず、彼らのモチベーションを上げられなかったゆえ、適切なアドバイス貢献を得られなかった

 LOVEの内、Listen(聴く)が欠けていた反省。

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