不倫・略奪愛の相手のようなサイコパスの特徴のある人とは距離をとるしかない

こんばんは。きょうは、突然マウスが作動しなくなりPC画面も閉じられず焦ってしまいました。ネットも同様に突然止まるということが多く、ケーブルの問題だというだけで復旧に10日間かかることもざらです。今回はお仕事を意識したので、恐ろしい…と思いました。

 

さて、職場や学校のいじめの体験談、いじめた事、いじめられた事、いじめの目撃、いじめの悩みについて知っている事を思い出してみます。

 

私は1958年生まれ、今のような「いじめ」は少なかったのではないかと思います。勿論、いじめる側に居たことはないはずでしたが…。

 

6歳違いの姪が家族からちやほやされるのに嫉妬した記憶があります。又、その子が無邪気に私に寄って来る、それを邪険に扱ったことは覚えています。どちらもが中高年の仲間入りをしてから、姪に言われたことがあります。「お姉ちゃんは、私の事が嫌いだったよね。…」相手のほうが、世渡り一枚上手の大人になったのだなと思いました。

 

正直に当時の想いを彼女に話し、謝罪しました。姪も謝罪してくれました。他人を憎らしく思ったのはこの時ぐらいでしょうか…私が、離婚に追いやられた原因の夫のお相手、彼女にもそこまで意地悪な感情は抱きませんでした。

 

姪は、私にいじめられたと思っていたでしょう。実際、姪はクラスのいじめられっ子だったと、姉が話していたことがあります。彼女は一人っ子で、大人の中で育ちました。勉強もそこそこ、いつもおしゃれな恰好をさせてもらっていました。我儘になるのも当然で、同年代の子たちとはうまくやれなかったでしょう。走るといつもビリ、行動が遅かったのも原因の一つだったようです。

私が嫌いだったのは、彼女自身というより我儘を何でも通させる周囲の大人でした。私は合わせない…という気分でした。今なら話し方はもっと優しくできると思いますが、彼女の希望に合わすことは、今でもしないだろうと思います。

 

次は小学4年生の頃の転校生。在日朝鮮人の子で、少しIQが低かったと思います。一家を挙げての自営業で、彼女もあまり奇麗な服を着ていなかったように思い出します。小学生は敏感です、彼女の身体に染み付いた匂いが嫌われる原因でした。

 

キムチの発酵臭だったと、彼女の家に遊びに行って知りました。クラスの中では男子がたまに揶揄うくらい、女子は遠巻きにして話さない、遊ばない、という状態でした。私も好きという程ではなかったのですが、嫌いでもなく、もう一人私が仲良くしている在日朝鮮人の子と3人が、席が近かったのです。

 

教室で版画を作っていた時、作品を作り終えた私たちが彼女に悪戯したのです。実際には私は共犯者で、仲の良い友達が彼女の椅子を引いて尻餅を付かせたのでした。それだけでも十分危険なところに、彼女は後頭部を後ろの机に打ち付けて3cm程切ってしまいました。頭部の出血は酷く、本当に恐ろしく思いました。そのまま、自宅に帰り、母が帰宅するのを祈りながら待ちました。

 

彼女の傷が酷くなりませんように、大人たちから怒られませんように…。戻った母と一緒に、彼女の家にお詫びに伺いました。そこで、彼女のお父さんに言われたのです。「この子は、前の学校で苛められていたんです。今回の事は、仲良くしてもらって家にも遊びに来てくれた友達がふざけてした事ですから、うちは気にしていません…」と。怖い!普段の行いや行動が、このお父さんの感情を左右したと知った時、安易だった自分を反省しました。

 

「これからも、仲良くしてやってください…」とお父さんは頭を下げられました。私は、泣きました。お父さんの彼女を思う気持ちがよく分かったし、私にはそう言ってくれる父がもういませんでしたから。彼女の傷が癒える頃まではもっと親しくしたのですが、自然と遊ばなくなりました。彼女は何も言わない、ぼんやりした子でしたが、「友達なんて思っていないくせに、親切な振りしてるだけでしょ…」と、思われているような気がして彼女のことが怖かったのです。その事件の後、彼女はクラス内での地位を得たというか定着し、本当に親しい友達ができました。

 

その次は、高校生のころ。私は、一日6食摂取する剣道部員でした。ある日、部長から招集がかかりました。体育館更衣室で部活前に話がある…新しい部で、上級生も下級生もいません、半分近くは同級生でした。その日の目的は、剣道歴が一番長い女子を吊し上げるというもの。

 

「一人だけ違う道着に防具、カワイ子ちゃんぶって男子に媚びる、…」この2点だったとしか覚えていません。人数合わせにその場に居ただけでしたが、発言材料もなく、同じような他の部員と顔を見合わせて「へ?なんだこれ?」と思っていました。落ちは、吊し上げられた女子が泣いて終わりました。「ごめんなさい。これから気を付けます…。」「泣きなや…わかってくれたらいいねん…水に流して、又一緒にやろうや!」「へ?」最後のは私。

 

陰湿になるようだったら、私のようなぼんやり人間が抑止力になるかもしれないと、見守っていたつもりでしたが、あっさりと終わったのでした。部長を含め半数はスカート丈が普通でない女子たちでしたが、そんなもんでした。

 

高校3年生。初めて同級生になった女子の顔面骨格が、ちょっと異質な子がいました。真面目だったので、私よりも成績は良かったと思います。噂で、ヤンキーに掃除用濡れ雑巾を机の上にうず高く積み上げられたりしたことがある、と聞いていました。私もその噂のヤンキーのほうが怖くて、気の毒な話だと思っていました。

 

そのクラスは、その噂の二人が一緒でした。特別なことは起きなかったか、私が気付かなかったのか、兎に角何も無かったかのようでした。でも一度だけ、やはり彼女の机の上にパンか何か食べ物の空袋が置いてあったことがありました。忘れられないのは、その時の彼女の反応でした。「も~又!誰!ええ加減にして!」見えないところで、嫌がらせが続いていたのかもと思える発言でしたが、彼女は強かったんです。居合わせた同級生は心当たりがないようで、皆がおびえたように彼女を見ていました。私もその一人でした。苛めとは違うよな?彼女は堂々としていました。

 

新人看護師として勤務が始まり虐められた

 

そして、新人看護師として勤務が始まったころ。生真面目がユニフォームを着て歩いていました。医師たちにはめんどくさい存在だったかもしれません。新人3人の中で一人邪険にされていると感じ、回診に付くのが大嫌いでした。重労働であっても患者さんの傍に居ることのほうが楽しかったのです。

 

医師の介助の仕方が悪いと、医療器具を床に投げつけられるのは普通の事でした。医師との相性の問題もありますが、まだそういう時代だったのです。生真面目なのですが、緊張しすぎで他人からは怖そうに見えたようです。女性からはそう見られることは無かったような気がしますが、男性に対してはもっと緊張感があったのは確かでした。

 

睨みつけるような方と、とても気に入って下さる方、両極端な評価だったような気がします。二年目に、病棟主任に命じられました。当然、軋轢は増えました。医師たちからは、以前のような扱いをされることは無くなりましたが、モラルの低い患者さん、特に暴力団勤務の方々とは交渉事が増えました。

 

22、23歳ですから、年齢で馬鹿にされました。早く歳をとりたいと一番思った頃です。そして、ずっと励ましあって、辛いことを一緒に笑い飛ばしてきた同期の看護師、優しく教えて下さっていた先輩看護師の態度が変わりました。これが、一番堪えました。何度も総婦長に、私はまだ準備ができていません…と、辞退を申し入れましたが言いくるめられました。

 

慇懃無礼なのでした、仕事で処置を落とされました、申し送りで内容を抜かれました、…当然のことですが、病院の仕事はチームワークです。伝言ゲームをいかに正確に続けていくか、その為にどれだけ確認し続けるかがポイントです、漏れがあってはいけない、落とせないのです。でも皆完璧ではないし、スタッフ側からの声掛けがあって成立しているところも多いのです。

 

3カ月続いたでしょうか?兎に角、こちらが確認しないことは気付いていてもしない、という時期がありました。唯々、「確認」を自己ベストで続けるだけでした。そういう時に限って、睡眠不足や体力不足でミスが出てきます。最初は言葉で一番揶揄っていた同期看護師が、ぶつぶつ言いながらカバーしてくれたのです。

 

「遅いことならユミ子もできる♪」「小さな事は出来ないけれど、いつか大物になりはるよね♪」小馬鹿にしながらも応援してくれました。ようやく、先輩看護師に名前ではなく「主任」と呼んでもらえるようになりました。

 

時代が違った、と言ってしまえばもう終わりです。私の経験からは、苛めは「嫉妬」からかなと思います。でも、近頃の苛めはそうではなさそうに想像しています。

 

私の夫の、不倫・略奪愛のお相手には、「自分を守る為なら仕方のないことだと思う…」という名言があります。勿論、「自分を守る」ということは、人間として当然です。でも、どんな手段を使っても、好きになった男性と結ばれるという事が、「自分を守る」事にはならないと私は考えています。

 

サイコパシーの高い人からは、距離をとるしかありません。「苛め」の原因が何であれ、距離を取るしかないと、それは逃げではなく「自分を守る」事だと思うのです。「自分を守る」と言うことの為ならば、「死ぬ」で距離は取れないはずです。

 

確かに、小学生、中学生、社会人だって思うように動けはしません。距離を取ることは出来ない人たちがいます。人間関係が改善した病院勤務でしたが、丸二年で退職しました。私に合わないことは沢山ありましたが、最終的には身体が不適応を証明して、距離を取ることになりました。それ以降、臨床に戻ることはありませんでした。

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