「ライム病」にかかった。アメリカで野生の鹿につくマダニが保有するスピロヘーターで感染

生命、生と死に関して人生で一番つらかった事、考えさせられた事や悩みについて考えてみます。最初の「死」との出会いは、7歳でした。

 

私の父は、母に暴力的な夫でした。母は言葉少なく、頑なな印象を与える女性でした。それでも私は、父に100%疑う余地のない愛情を、貰っていると感じていました。母からは憎まれているとは思いませんでしたが、疎外感を受けていました。

 

ある日曜日、父が脳溢血で亡くなりました。その日は、昏睡状態で鼾をかき続ける父の傍で過ごしました。夕方、父の呼吸は止まりました。自宅で母と二人、なんの処置もすること無く、父を見送ったのでした。享年50歳。

 

昼間、父を一人寝かせたまま、母は私と掛かり付けの内科医院2か所に、往診を依頼に行っています。どちらも「学会にでております…」と断られたのです。どちらも、往復1時間以上かかる距離でした。そして遂に呼吸が止まってから、同じ敷地内に暮らす父の同僚を呼び、自宅にあった電話で救急車を呼んだのです。救急隊員から父の死を伝えられて、母は泣いていました。

 

父は角膜移植のドナーに登録してあったので、直ぐに別の医療班がやって来て、全ては粛々と行われました。父の会社の方たちが全て仕切って下さったのです。

 

救急車を呼ぶということが、とんでもない行為に思われていた時代だったからね…周囲はこれで納得しました。大きくなった私は看護師になりましたから、疑問を持つようになりました。なぜあんなにのんびりと、日曜日の散歩を母は楽しんだのだろう?

 

その日私は、散歩に出た際、お寿司と小学生用の月刊雑誌を買ってもらいました。本は毎月、書店から父母のものも含めて自宅に届けられていたので、特別に購入したのが子供心に不思議でした。まして、出前や買い食いをする事のない家でしたから、驚きました。勿論、私は嬉しかったのですが…。あの日の母にも表情がありませんでした。

 

大きくなるのと共に、母への不信感が募って行きました。最後の最後に違った意味で感謝し、愛おしいと思えたことは幸せでしたが、私が母に頼ったことはありませんでした。他人との別れは突然に訪れる。「風もないのに灯したロウソクの火が揺れるのは、その亡くなった人が笑いかけてくれているんだよ…」

 

父の死後、母は一人で事務手続きに出歩く日々が続き、私は毎日一人でロウソクの炎を見つめて父に話しかけていました。揺れるたびに父が返事してくれていると信じていました。一体、誰がしてくれた話だったのか全く記憶にありません。

 

見かけは逞しい私ですが、体力がないのでどこに居ても限界が来ると寝込んでしまいます。一度はインドからの帰国の途、バンコクでマラリア熱を発症してしまいました。バス車中で出会った同い年の女性の家で、一週間寝込んでしまいました。発熱の形が独特で、42℃を超す上昇期には幻覚に近い朦朧とした状態になります。下降後には強烈な脱力感が襲います。上昇前の悪寒戦慄も、歯がガチガチとなり凄いものです。

 

コルカタでも2年後に発症、日本でもその2年後に発症しました。病院は山ほどあるのに一番役に立たなかったのが、日本でした。医師の知識不足。患者の為に調べてやろうする気概がない、専門家も少ないのです。そうゆう歯痒さが、増々私を海外に向かわせました。

 

その後、アメリカで「ライム病」にかかりました。幸いにもこの時の治療の御陰で、その後マラリアは発症しなくなりました。私にとってライム病は、壮絶な病気でした。症状がほぼ消えたと思えるまで、15年程かかりました。後に膵臓癌の疑いを告知されたときも、このときの経験で直ぐに覚悟が決まりました。心配したのは「死ぬ」ことではなく、どれだけ「痛み」から「守られるか/逃げられるか」と言う事でした。

 

「死」にどの様に向き合えるか、その時にならないと分かりません。しかし、意識がある状態であれば、唯々、「痛み」を取り除いてほしいと夫に伝えました。他の医療行為は一切不要。唯、痛みを取り除いてほしいと。

 

ライム病はそういう病気でした。進行状況によって症状には雲泥の差があります。私の場合はかなり発見が遅れたのです。多分、野生の鹿につくマダニが保有するスピロヘーターによって感染したようです。私は3年弱、フィラデルフィア郊外のとても美しい世界に暮らしていたのです。それらは、その代償でした。その時は薬物治療を終えて、何とか飛行機に乗れる状態になるまでリハビリを行い、日本へ戻りました。

 

泣いても、喚いても、解放されない「痛み」。全身の関節痛と神経痛で寝返りも打てず、動けないのです。トイレにも直ぐには行けないとなると、お漏らしが心配で夜間も眠れず、鎮痛剤の呑みすぎで頭もぼうっとします。動けないと、全身の筋肉がごっそり落ちました。残るのは脂肪のみ。腕も足も、余りの痛みに切って捨ててしまいたくなります。その激痛に医療用針を自分で突き立てたこともありました。

 

死にたいなんて、思う余地はありませんでした。癌の半分以上は無痛性だと聞いたことがありますが、「痛み」は神からの慈悲なのではないか?とその頃思いました。痛みが全てを呑み込んでしまい、不安や恐怖は「痛み」の前には掻き消えてしまいました。唯、「痛み」に翻弄されていました。

 

日本の重度心身障外児施設に4年間勤務したとき、日本の姥捨て山と言われる病院にいたとき、マザーテレサの施設での活動、インドで写真を撮って歩いたとき、日本で写真を撮って歩いたとき、日本の精神病院、インドの精神病院、アメリカの精神病院、日本の癌患者さんたちとの活動、バングラディシュでの家庭訪問…。

 

私は、その時その時を、確かに人々と繋がり、沢山の想いを心に貯めてきました。「全部、覚えていよう…」何もできなかったけれど、誰かに話す機会があれば、あれも伝えよう…これも知ってもらおう…そう思ってきたのです。

 

でも、松田氏の仰る通りだと昨夜は、目から鱗でした。全ては、私が思い込んで覚えているだけの出来事です。人々と笑ったことも、辛かったことも、もう消えてしまったことです。私には今しかないのです。身体を伴って「夢」を見ていたような気がします。

 

結局人生で一番辛かったことは、胸を叩いて苦しんだ、夫に裏切られたときでした。流産で子供を亡くしたときの悲しみは、分かち合う人がいたわけですが、「裏切り」は孤立してしまいました。浮気されたことが悔しかったのではありません。彼は父の後に初めて見つけ、心から信じた家族だったのです。

 

この世で唯一彼を家族だと信じていたこの私を陥れ、他の人の為に私は切り捨てられていたということが苦しかったのです。結局DV男だった父の面影を夫の中に見ていたのかもしてません。街ですれ違う女の子の笑顔が眩しくて、この子のように笑える日が又来るのだろうか…、4年前の私は本当にそう思いました。

 

異常な物忘れが続き、死にたいとは思いませんでしたが、このまま発狂してしまうのだろうかと怖くなりました。何度も精神科を受診したくて、何軒もの病院、診療所に予約の電話を入れました。自分の友人の精神科医には最初に連絡を試みました。でも、本当に不思議なことに、全部病院側の都合で予約が取れなかったのです。ついに受診せず今日に至ります。

 

今現在「彼の言葉は信じられない…」という程度に、心の距離が取れるようになりました。彼は日本に暮らし、私がインドに暮らす、と言う物理的な距離を取ってからも、心の距離を取るまでは本当に苦労しました。でもまだ、人間はこんな形で他人を裏切るのだと、人間不信は続いています。

 

インドで善い人間関係に恵まれている私だと思いますが、彼に見せたような心の開き方は、もうできないだろうと想像します。又、もうしなくて良いのだと思います。私は、多少精神に異常を来たしましたが、死にたくなるほどでなかった事を、周りに居て下さった方々に、そして神に感謝しています。

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