高校卒業し皇宮護衛官をめざしたが低身長で基準外。国家公務員になるため航空自衛隊へ

私は九州の熊本県に生まれなした。小学校に入学する時には、母親は家を出ておりまして、幼稚園の旅行の時に写した写真が1枚あるだけで、その写真を見ても、母親の面影は覚えていません。

 

父親は、役場に17歳で小使いさんとして勤めて居た時に戦時中で召集令状の配達の時自転車から落ちて、左の膝の内側を強打脚の腫れと、40度の熱が3日続き熱が下がった時は、両耳が難聴になり脚も、当時の軍医上がりの医者が筋を切断したことで、正座も出来ずやけになり年下の連中を連れては、隣町に出向き喧嘩を売る愚連隊まがいの事をしていたと言うことを、父親の兄さんから聞かされていました。

 

お婆さんが、身体障害者に成った息子を甘やかした為、仕事も長続きする筈も無く焼酎を飲んでは、昼から寝てばかりの生活に、母親が土方の日雇い労働で収入を得ての暮らしだったと、近所の同級生の母親から教えられていました。

 

母親が居なくなってからも、米を焼酎に換えては飲む生活で、水道も無く近所にブリキのバケツを持って貰いに行く事を、私は12歳頃まで経験していました。当然ながら、貧乏のどん底生活に目が覚めたのか、親兄弟から叱責されたのかは、判りませんが関東に出稼ぎに行きました。

 

3歳上の姉と二人姉弟なんですが、姉が中学に上がる迄は二人だけ暮らしで、食事も麦飯に、お婆さんが本家から貰って来る、少々の料理で何時も空腹で、夕飯が済めば、テレビも無く、夏の暑さにも、扇風機も無く早めに寝る事だけで、朝に成ればおかず無しで麦飯だけ食べて学校に登校。朝食のおかずとして残して置くことを考える我慢が出来なかったですね。

 

学校の給食が楽しみで、友達が残したパンをランドセルに入れて持ち帰り、次の日の朝の麦飯が炊けたあと蒸らす時に上にのせて柔らかくして食べる知恵が身に付きました。

 

食事が貧祖のため、栄養が足りず頭と顔のバランスが悪く当時の写真を見ると、頬が細く体重測定では、栄養失調と言われていました。身長も低く、学校では何時も一番前で、よく貧乏人のチビとか、風呂も貰い風呂のため、毎日入浴できず、チビクロサンボと呼ばれからかわれました。

 

父親が、アルコール中毒による、精神分裂病で入院させられ、小学校の時から両親の愛情を感じられないまま姉が中学卒で就職した事により、本家に引き取られました。

 

中学1年の時に、本家のテレビで見た柔道一直線に憧れ柔道部に入り、身体を鍛えて見返すぞ、と3年間頑張り黒帯を目指したが、残念ながら1級止まりでした。ちなみに、県内の同学年で柔道で強いと噂に成って居た人が山下康弘さんでした。

 

私は中卒の時で156センチでしたが、高校卒の時でも157センチと成長が止まり、何時も雑誌に載っていた中島式伸長法に憧れる根暗な少年でした。

 

高校卒業で就業したかったのが、皇宮護衛官でしたが身長基準で諦めるしかなく、それでも国家公務員になりたく、どうにか自衛隊は入れることが出来ました。

 

航空自衛隊に入隊しても、全国から来る同期の体格に引きずって来た惨めな感情が思い出され、皆と仲良くするまでには、時間が懸かりました。私は、自分が考えるほど皆は気にしていないと感じた時に、自分が低身長で悩み、引っ込み事案による性格が、意固地な、気難しい男だなと気付き。

 

見栄をはる、虚栄心の心貧しい男には成らない様に全てに全力で取り組み、銃剣道の昇段試験では二段を与えて貰い、自信に成りました。

 

 

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