友人のことですが、死に関して考えさせられたことを書かせていただきます。
本当の親友とよべる友達は2人か3人くらいしかおりませんが、Y君もその一人です。彼とは高校時代からの友人で、10年来の付き合いです。高校を卒業し、大学、社会人と進み、お互い同じようなタイミングで結婚し、家庭を持ちました。
私は先に子供ができたのですが、彼はあまり子供ができず、やっと奥様の妊娠がわかりました。私も大喜びで、まだ生まれてもないのにオムツや子供服をプレゼントしたりして、妊娠を喜んでいました。
もうすぐ生まれそうだというとき、仕事中に彼から着信がありました。出れなかったので、後で折り返そうと思っていましたが、先にラインが届きました。
「子どもが死産だった」という内容でした。普通の悩みだったら今まで幾度となく慰めあってきましたが、今回ばかりは何と言葉をかけていいかわかりませんでした。「言葉にならない」とは、本当にこのことなのだと思いました。どんな言葉を選んでも、すべて陳腐であると思いました。
なぜ、彼がこんな目に合わなければならないのか。子供は親を選んで生まれてくるのであれば、この友人夫婦は最高にいい両親のはずです。よりによって、なぜこんなことが起こるのでしょうか。
さらに辛かったのは奥様の方だと思います。お腹の中で亡くなっているとわかっていながらも、通常のようにお産はするのだそうです。普通なら、元気に産声を上げるはずの赤ん坊が、静かに生まれてきたそうです。
彼らはその子に名前を付け、生まれてきたその子を抱き泣いたそうです。
それから時間がたっても、何故、こんなことが起きるのか、疑問は消えませんでした。ただ、その後読んだ本の中に、「その夫婦の子供として、命を宿すことだけが目的の魂もあるといった内容を見つけました。その子の魂も、何か目的があってこうなったのだろうと思います。
それから1年くらいたち、その夫婦にも念願の子供が無事に生まれました。私は、この子は亡くなった子の魂だと信じています。命や魂は続いていると思うからです。
こういう経験をした友人のを見ると、子供がいるということの幸福を強く感じます。イライラしたり、怒ったりすることもありますが、存在するだけで素晴らしい存在だと思います。
今は子供を虐待したり、捨てたりする親もいるようですが、他人であっても、こういう経験は命というものを考えさせるきっかけになると思います。虐待をしている親も、そういうことに気づければいいのですが。