会社を辞めその後勤める会社が全部倒産。機械工学部に入り、文学部に入らなかったのが最大の失敗

二年も浪人してみたが生まれながらに頭が悪かったから数学が大の苦手だった。入試用の参考書を買い数学に取り込んだが、理解できなかったから、答えが出て来なかった。

 

逆に、子供の頃は、日が暮れるまで色々な小説を読みふけっていたから、国語は得意だった。中学生の頃、国語の試験が有り、教科書で習っていない漢字が出たが、別に難しいとも思わずに答えを書いたが、先生が漢字のテストは一か所、無効にすると言ったが私だけが合っていた。褒められた。

 

高校の時、一冊の英語の参考書が私を初めて覚醒させた。今捜してみてもこの本は無いが、諺のように纏めてあるので、物覚えが悪い私にもすらすらと文法が覚えられた。

 

60年も経った今、その短文を覚えている筈も無いがこんな風だった。「名代は主語になんとか、なんとかになんとか」名代とは名詞、代名詞この二つは主語と目的語になんじゃらかんたら」と覚えさせるのです。

 

子供の頃から、小説家になりたいと思っていた私が、二浪してまで入る大学の学部の選択で大間違いをしてしまいました。入学時に、就職の時は機械工学部が有利だとわかり、文学部をけって機械工学部を選びました。これが一生を狂わせました。

 

工業高校から入学してきた連中の足元にも及ばないのです。まして設計となると初めて図面を書くための、強度計算が出来ません。良く分からないままに卒業は出来ました。

 

空手をやっていた友達が私に設計した図面を何枚も見せて呉れたお陰で最低線で卒業出来ました。食品機械を設計製作をする中堅会社に就職出来ました。
有りがたいことに、当時は引く手数多で入社試験も無く面接のみで入社出来ました。

 

寮にも入り、半年ぐらいは楽しく働けました。配属先が工務課だったから毎日のように、古い機械をばらし洗い油でこびり付いた油を擦って綺麗にしたり、会社が購入した新しい機械を調整していた人の横に立って見ていたりしました。

 

昭和33年頃なので、購入する機械は外国製がほとんど。取扱説明書を見ても英語ばかり。H課長が機械専門の翻訳家に任せていたので安心していました。
新入社員は私ともう一人いましたが半年が過ぎ一年目位になった時、いささか不和感が生じてきました。

 

同僚だったから仲は良かったのですが、課長が私に難しい仕事をさせるのです。英語で書かれた分厚い一冊の取扱説明書を渡し、訳しておいてくれと言うのです。

 

機械専門の用語が並び、当時三省堂の英和辞典しか持っていなかった私が、訳せる筈が有りません。その機械と言っても、工作機械ではなく、工具を修理する特殊な物です。

例えばLiefと書いてあれば葉と訳しますが、機械を見ると葉の形をしたものが、ニョキッと出ていたりします。この葉状の物がどんな工具をどう直すのか首をかしげるばかりです。

 

一週間ほどたち、課長が同僚と一緒に来て私に機械の説明をしろと言うのです。わたしは、恥ずかしながら唯、黙って機械の横に立っていました。ある日、私に訳せと言った原書が翻訳された書類が課長の机の上に置いてあるのを見て、言葉を失いました。

 

課長も訳せないものを新入社員の、工具の種類すらしらない私に何故訳せと言ったのか。この機械は結局課長も使いこなせずに何時までも埃を被っていました。二人いて同じぐらいの能力なのに、何故私にばかり恥をかかすのか。同僚ばかりかわいがるのか。

 

こんな不満がいつの間にかふつふつと湧いてきました。人をこんなにも憎むことが出来るのだという思いが頭の中を駆け巡ります。もう顔を見るのも嫌になり、朝、作業服に着替えても出社する気力も無くなってきました。

 

人を憎むという事は、比較され差別されるのが原因だと思います。背筋が凍るほど人を憎んだのはこの課長ただ一人です。嫉妬も有りました。

 

勿論。会社を辞め其の後勤める会社が全部倒産しました。今考えれば、誰が悪いわけでなく、みんな私がわるかったと思います。

 

島津亜矢さんの「想い出よありがとう」を聴くたびに最初に思い出すのがあの憎かったH課長です。今は、懐かしく思い出しますが、物理的に考えてももうお亡くなりになっていると思います。

 

目先の欲に釣られ、機械工学部にはいってしまい、文学部に入らなかったことが最大の私の失敗だと確信しています。人生の分岐点を間違えた決断力を間違えたことが人生の誤りでした。今も、もがいています。

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