プロフィール

2005年に独りで起業、独りネットビジネスにこだわり15年ほど。『独りネットビジネス』にこだわり約15年。在庫なし、初期費用なし、維持費なし、安定志向、独りでできていつでも辞められるビジネスを専門にやっています。

人生相談や皆様からの応援メッセージ

自己破産を防ぐ為の総量規制の導入で借り入れできない生活困窮者が闇金に流れた

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株式投資・FX・仮想通貨は未経験であり、興味も湧きませんので、なぜこれらのビジネスに興味が湧かないかの理由を述べた上で、別のお話、過去に受けた心の傷をお話させて頂きたいと存じます。

 

まず、なぜ株式投資・FX・仮想通貨をやらないのか、そしてなぜこれらのビジネスに興味がないかといえば、未経験であり、インプットという知識習得には膨大な時間が必要で、戦う事ができる専門的な知識を覚えるには、そして、アウトプットという実践の場で、それにつぎ込む軍資金も必ず必要となります。

 

現在、定年を数ヶ月後に控え、生活に困窮する59歳の独身オヤジの私には、もう時間がありませんし、またビジネスにつぎ込む金もありません。最近、仮想通貨が注目を浴び、短期間のうちに、誰々が何千万稼いだ、何億稼いだと、まるで乗り遅れるなといわんばかりの賑わいです。テレビでも、現役の看護師が、一億稼いだとニュースにあがっていました。

 

しかし、私から見れば、得体の知れない魔物のように映ります。仮想通貨は瞬く間に暴落する事も事実ですし、一億稼いだとニュースにあがった看護師も、確か一日で瞬く間に四千万減ったと戸惑いを隠せないようでした。

 

仮想通貨や株式投資・FXは短期間のうちに大きく稼げる事も事実でしょうが、勝負師のように、それに膨大な資金をつぎ込んでのマネーゲームであり、形を替えた博打・ギャンブルであって、私にはそんな才覚を養ってまでもやろうとは思いません。

 

①知識をインプットするにはもう時間がない。

②アウトプットするだけの軍資金がない。

③精神的にもギャンブルが大嫌いなので、極めてギャンブル的要素の高いこれらのビジネスには一切興味が湧かないし、仮に違うネットビジネスで収入を得られるようになったとしても、これらのビジネスに金をつぎ込もうとは全く思わない。 と、こうなります。

 

では、過去に受けた私の心の傷をお話させて頂きます。

【可愛がっていた野良犬の心を裏切ってしまった事】【父親のギャンブルで家庭が崩壊した事】【最高権力者に徹底抗戦した事でされ、生活困窮に陥り自己破産の末に地獄の如き現在の状況に至った転落人生の事】の三つを私が過去に受けた心の傷としてお話させて頂きたいと存じます。

 

可愛がっていた野良犬の心を裏切った事

もう五十数年前の遠い昔の事です。小学校低学年だった私は、仲間達と一緒に一匹の野良犬を可愛がっていました。牝犬で名もメスと私が命名したと思います。野良犬ですから、当然、誰の家庭でも飼えるわけにはいきません。私と仲間達はそのメスという犬を学校から帰ると可愛がっていました。

 

ある朝、私は通学途中で、自動車が往来する道路を挟んだ対岸にあるバス停を渡ろうとしていました。。信号機なんてものは現代社会のようにまだまだ整備されていない時代でした。その時、突然現れたメスは、私を見つけて嬉しそうに尻尾をふって私の後を駆け寄ってきました。

 

私は帰れと、しぐさで示しましたが、車の往来をくぐり抜けねばならなかったので、メスを戻す余裕はありませんでした。私が道路を渡りきった頃とほぼ同時だったと思います。メスは走ってきた車と顔を接触させると、きゃんと甲高い鳴き声を発してどこかに逃げていきました。

 

学校から帰宅して家(長屋)にいるとメスがきました。メスの顔は左目が葡萄のように腫れ上がっていました。私は驚き、狼狽し、そして変わり果てた顔になったメスの事故の生々しさに恐怖の念を抱きました。幼かった私は、助けてやりたくてもなにも出来ず、またどうしたらいいかわからず、その生々しい恐怖から逃れる為に部屋の奥にひっこみ隠れました。

 

しばらくメスはそこにいたようですが、どれくらいの時間が経過したか覚えていませんが、そっと覗くとメスはもうそこにはおらず、そしてそれ以降、私の前に姿を現す事は二度とありませんでした。二度と現れなかった事が、裏切られたと、メスが思った何よりの証だと思います。

 

メスに餌をやったり、遊んで可愛がったり、私が一番メスを可愛がっていたと思うし、メスもまた、私に一番なついていたように記憶しています。メスからしてみれば、一番信頼し、一番頼りたい私の処に来たのです。

その可愛がっていた犬の怪我を、(現代のように動物病院が普通にあるわけでもなく、子供だからお金をもっているわけでもなく、親に話しても貧しい家だから駄目だといわれるのは目に見えていたし)どうしてやる事もできなかったのは仕方なかったかもしれません。

 

が、事故で葡萄のように晴れ上がったその事故の生々しさに恐怖し、奥に隠れるという卑怯な行為で、メスはどれだけ傷つき、悲しく寂しい思いで私の家から去って行ったかと思うと、胸が切なくなります。遠い昔の事ではありますが、五十九歳という独身オヤジになっても、あの頃の事を思い出すと、罪の意識にさいなまれ、悪い事をした、ごめんな、という思いで、心が切なくなります。

 

父親のギャンブルで家庭が崩壊した事

父は既に鬼籍に入っており、亡くなった者をとやかく言いたくはありませんが、父がもっと愛ある家庭を築いてくれていたら、そして兄弟姉妹をつくってくれていたら、自分の人生も、また違ったものになっていただろうと現在でも想います。1958年、6月、暗くじめじめした長屋で私は生まれました。

父は戦時中は船に乗船していたといいますので、おそらく海軍だったのでしょう。戦争が終わり、船から降りて陸にあがった父は周囲の者から競艇、いわゆるボートレースを教わります。まだ私が生まれる遥か以前の話です。

 

以来、ギャンブル依存症となった父は、その資金をつくる為に母のミシンや質草となるものを質に入れて勝負の軍資金をつくり、また親戚中から金を借りまわり、果ては私の為に母が貯めてくれていた貯金さえもギャンブルに投げ捨てました。こんな事を繰り返していましたから、私の家は貧しい生活を余儀なくされました。

 

そして暴力、現在でいうDVも激しく、母を口汚く罵っては暴力を加えていました。私が幼い頃、夜、蚊帳を吊ったその中で、父に蹴られる母の姿、そして泣き叫ぶ私……。あの時の光景は、今でも鮮烈に心の中で生きています。

 

忘れられるものではありません。生活は貧しく困窮していましたが、母が必死に働いて、決して私にはひもじい思いはさせませんでした。私が物心つく頃から、こんな状態が続いていましたから、幼い頃から、私は父とギャンブルに対して、烈火の如く激しい憎悪を募らせていました。

 

一度ギャンブルに染まった者は、もうどうにもならない。暴走し、家庭を破壊し、周囲に迷惑をかけ続ける……。 これが私が得た結論でした。私が19歳の頃、父はついに包丁を手にしたりするようになりました。ああ、もう限界だと考えた私は、離婚届を区役所からもらい、母を父から離婚させました。

 

59歳となった現在でも、私はギャンブルのは一切やりません。私の周囲(会社)には、パチンコや競艇をやるギャンブラーが多くいますが、私は彼等が競艇やパチンコなど、ギャンブルの話で盛り上がっている場所の空気に、嫌悪感を感じて馴染む事ができません。私はタバコは吸いますが、タバコの煙が大嫌いです。

 

タバコの煙が蔓延している部屋にいると息が苦しく、気分の悪さに耐えられないのと同じです。かつて違う勤務地に通っていた頃、その帰り道で競艇の施設からポケットに手を突っ込んで俯き加減の数え切れない人間達が、ぞろぞろと早足で階段を降りてくる、或いは交差点に進入してくる光景を幾度となく目にしました。

 

皆、みすぼらしい姿でした。ポケットに手を突っ込んだまま俯いて早足で歩いていくその光景を観れば、彼等が競艇で金をすった(レースに負けて大金をはたいた)事は容易に想像できました。私は彼等の顔が皆同じに見えました。ギャンブルを、やるやらない、好き嫌いは、その人の人生ですから、どうのこうのというつもりはありません。

 

が、金がなければ生活できませんし、結果、他人から金を借りて生活しなければ、生活自体が成り立たなくなります。加えてギャンブラーは、自分をコントロールできませんから、借りた金を、またギャンブルにつぎ込みます。金を貸した側も、手元から生活資金が貸した分だけなくなるわけですから、迷惑の極みです。

 

そんな金を貸してくれた他人の痛みさえ、ギャンブラーには解りませんし、彼等は自分の娯楽に没頭できればそれでいいという自己中心的な思考形態に陥っています。私が現在勤務している会社は、低賃金の肉体労働者が働く環境ですが、私の父に限らず、ギャンブルやアルコール依存症で家庭が崩壊した事例をいくつもこの目で見てきました。

 

これをやったら生活できなくなるし、他人にも多大な迷惑をかける……と、ここで良識と理性のある人間だったら、やめるのが普通ですが、ギャンブラーにはそれがありません。私は過去、ギャンブル依存症とアルコール依存症の二人の人間から同時に頼られて、苦しい思いをした経験がありますが、私は父と彼等が重なって、立ち直ってくれたらという切なる思いで彼等の面倒をみてきました。

 

が、依存症の人間は心の奥深くに甘えの感情を持っていて、決して立ち直る事はありません。ギャンブラーは、「今度まで(でやめる)、今度まで」というのが口癖で、決してやめる事はありません。同じ行為を延々と繰り返すだけです。

 

テレビでは若い女の子を使って競馬のCMなどをやっていますが、博打は博打です。同じ金を使う行為でも、自分に投資する為に金を使えば、それは自分の血や肉となり、スキルアップになります。が、ギャンブルは大切な生活資金を、どぶに捨てるのと同じです。

 

勝つ時もあるでしょうが、確立から言って、ギャンブルは負けるように出来ているんです。そんな仕組みも解らずに、いや解っていても、自分を止められず、暴走するギャンブラーは家庭を崩壊させ、家族を悲しみの渕に追いやり、家族の人生を狂わせ、そして、自分自身の人生を破壊している事に気づかない存在です。

ギャンブルをやって悲惨な状況を見せてくれた父は、私にとっては《反面教師》です。俗にいう【飲む・打つ・買う】という行為を、私は決してやりません。父がまっとうに働いておだやかな家庭を築いてくれていたら、そして弟か妹をつくってくれていたら、私の人生もまた違った人生になっていたと考えます。

 

私は一人っ子ですので、親が病気をした時などは、すべて私一人の肩にすべての経済的負担が、のしかかってきます。数十年を経て、別れた父から電話が、かかってきました。父は膵臓がんに侵されていました。

 

余命いくばくもないと解り、別れた子に会いたいと思ったのでしよう。父は太り、頭はつるつる、鋭かった目はおだやかで、お地蔵さんのようになっていました。父は他界しましたが、その葬儀は私が出してやりました。

 

もう縁は切れているわけですから、そこまでしなくてもよかったのかもしれませんが、血は切っても切れるものではありませんから、葬儀だけは出してやる事にしました。ただ、この時点で私はリストラされ、低賃金の肉体労働をしていましたから、金に余裕はありませんでした。

 

父が亡くなってどうのこうのというよりも、葬儀代金の心配が真っ先にきました。父はヘビースモーカーでしたが、タバコはやめていました。が、結局、競艇は死ぬまでやめ切れなかったようです。ギャンブルは私に強い怨念を抱かせ、そして、私の深い心の傷になっています。

 

最高権力者に徹底抗戦した事で追放され、自己破産に至った転落人生

私はこれまで様々な職業を転々としてきましたが、葬儀の仕事を13年間やっていた時期がありました。その時の話です。葬儀という仕事に興味を抱き入社した私は、辞めるまで、この仕事が大好きでしたし、天職とさえ感じていました。

 

会社は結婚と葬儀を扱う冠婚葬祭互助会で、その葬儀部門の仕事に私は充実感を覚えていましたし、会社が大好きでした。大好きというのは、一緒に働けたあの頃の仲間と、同じ時代を生きられたという思いが好きで、決して株主や上層部の経営する会社が好き、という意味ではありません。

 

私は葬儀という仕事と、あの頃の仲間や関連会社の人達が働く会社が大好きで、仕事も会社も愛していました。自分で言うのもなんですが、売り上げ成績は群を抜いていました。野球で言えば、本塁打も打てる打率4割近いアベレージバッターのようなものでした。

 

事実、私は、この道で飯を食っているんだという気持ちで、力の限り頑張りました。現在の葬儀業界はどうなっているか解りませんが、私の住む福岡市の葬儀社は、当時、【打ち合わせ】【葬儀祭壇の組み立て】【司会進行】と、分担制をとっている会社が多かったのですが、私が入社した会社は、何もかもやる会社でした。

 

私は葬儀の打ち合わせ(具体的にいくらの葬儀にするかの商談)と司会が大好きでした。成績もよく仕事も順調で、給料とは別に、毎月15日には、成績に応じた配当金が支給され、その他にも、お寺様からのお礼や遺族からの志や寸志が入り、経済的にも何も不自由はありませんでした。

 

私はギャンブルをするでもなく、酒を飲むでもなく、女性に溺れるような事は一切しなかったので、そのお金は、毎日のように本屋のハシゴをして(自己啓発の本などに)1万くらい惜しげもなく使っていました。

 

もう20年前の遠い昔の事ですが、昔の給与明細を見ると、50万というのがあって、俺、こんなに貰ってたのかと驚いたくらいです。その会社で、私は労働組合に入る事になりました。労働組合と聞いて嫌悪感を抱かれたらすみません。ある日、労働組合の大会に先輩に連れて行かれると、何故かそこに、私の名前が候補者としてありました。

 

私は驚きましたが、乗りかかった船だと考え、それに応じました。結果は見事に当選で、役職は副書記長でした。当選したとはいうものの、誰も会社を恐がってなり手がなかった、というのが実情です。組合は御用組合の色合いが濃く、余り力はありませんでしたが、それでも、権力に対しての反骨の志を持った人達もけっこういました。

 

会社は苦しい苦しいと言いながら、それに反するような事をやり、社員を食い物にするような宝石やスーツのキャンペーンをやって売る事ができなければ、自分達で自腹を切って買わざるを得ないような空気でした。(給料がいいから、何度もスーツは買いましたが)

 

また社長は、年に数回、お気に入りの社員(多くは本社や婚礼も含まれると思われる女子社員)を数名連れて海外旅行に出かけていました。この年数回の海外旅行の費用が、社長のポケットマネーから気前よく出されているとは聞いた事がありません。調べてみると、社長と海外旅行に行った女子社員達は、何故かみんな退職しています。そんな会社であったから、私は組合に入りました。

 

そして数年を経て、社長の弟というのが、福岡の地元銀行N銀行から会社を改革するという事で入社してきました。役職は葬儀部門の部長兼人事部長でした。出来る人には違いないのですが、傲慢で、冷酷で、吼える人でした。要するに権力で制圧する恐怖政治をふりかざす人でした。

 

彼がやってきて、その時に葬祭部を束ねていた統括のHさんは即座に「明日から来なくていい」と、首を切られました。葬祭部は、空気が一変し、ぴりぴりした雰囲気に変わりました。今まで自分達が築きあげてきたものが、独裁者によって破壊される……。私は強い懸念と危機感を抱きました。

 

彼は組合員の私に、「俺は兄貴(社長)を守る!」と言いました。私に対する挨拶代わりの宣戦布告です。私の心には、この帝王学を学んだ傲慢で冷酷な男に強い闘争本能が芽生えました。自分は家庭があるわけでもない、失うものは何もない、クビを恐がっていては何も行動できない、烈火の如く徹底的にやってやる! 私は覚悟を決めました。

 

それから私は葬儀部門からそれに関連する営業部門に配置替えとなりました。ここは病院回りをして遺体を我が社にお願いしますという営業とは別で、御遺族の家を周り、香典返しの商品や仏壇を販売する営業部門です。

 

当然今までの葬儀の事務所とは別で、その隣の敷地にある別棟の二階建ての事務所へと変わりました。そのリーダーは営業経験のある若い女性で、部長の息のかかった社員でした。その部屋で、天敵ともいえるその部長から、ねちねちと長時間、監禁された如くに組合の政策を変えるように遠まわしに交渉されたりしました。

 

私は、「私の一存ではできかねます」とやんわり断わりましたが、この部長は、私を懐柔しようとしたり、息のかかった女性リーダーに組合の大会には誰が来ていたとか、聞かせたり、何かと標的にされていたように思います。

 

そして、いよいよ運命の日が訪れます。社員の給与をすべて年俸制にすると会社が言い出しました。それによって明らかに給与が不利になる部署の人もいたので、組合としては受け入れられないと抵抗しましたが、皆、会社を恐れて次々と社長・部長の兄弟に臣従していきました。

 

その当時、屈服していないのは私一人だったようで、私の事を心配して、上司が折れる(屈服する)ように助言してきたほど、私の立場は悪くなっていました。が、組合として抵抗する為に、私は社員に対して檄文を書きました。

 

会社が言う事はすべて正しいというのか! 会社であれば何をやっても許されるというのか! そんな想いを込めて私は記事を書きました。これを書けば、立場が悪化するのは覚悟の上でした。それで他者には迷惑がかからぬよう最後の文末に、これを書いたのは自分だと意思表示する意味で、私の名前を書き入れました。

 

私としてはかなり紳士的にやんわりと書いたつもりであったのですが、その内容が、彼ら兄弟の逆鱗に触れたようです。兄の社長か弟の部長かのどちらかは解りませんが、私が書いた記事(組合新聞)を読んで、椅子を蹴り飛ばしたと伝え聞きました。

 

そしてその数日後、デスクで事務整理をしていた時、最高権力者の部長から電話がかかってきました。話は「今から君に退職勧告をします」でした。

 

実は、親類が株主総会に出席した折、辞めさせるべき抹殺の対象に、(私の)「名前があがったらしいよ」と、ある先輩社員が、そう電話で教えてくれていました。ですから、追放は時間の問題で、私は覚悟を決めていました。

 

もちろん、勧告ですから残る事もできたわけです。しかし残ったとしても、(給与が低い)他の部署に移すとも言われました。張り詰めていた糸が切れました。もうこの会社には、自分の居場所はない。私は3日後に辞める意思を伝えました。

 

会社を辞めて数日後、かつての仲間から、会社にとって不都合な秘密というか、会社を糾弾する文書というか、怪文書が誰かの手によって社内に出回っていると後輩社員から聞きました。

 

会社が社員に対して、どれだけ権力をふりかざし、社員から恨みをかっていたかという何よりの証です。私を追放した当時の部長が、自宅の固定電話に電話をかけてきました。

 

会社も、会社を混乱させる謎の犯人捜しにやっきになっていたようです。「実は今、会社内で怪文書が出回っている」「はい、それは私も聞いています」
「文書を書いたのは君か?」私が犯人だと考えたのでしょう。

 

「もし、私が書いたのなら、組合新聞に書いた時のように、私が書いたと、ちゃんと名前を書き入れますよ」そう返答しました。後日、その返答に、「こいつじゃない、と思った」そう部長は語ったそうです。

 

ある後輩社員が、そう教えてくれました。私が辞めたその後、結局、誰が文書をばらまいたかはわからずじまいで、労働組合は解体しました。させられたと言うべきでしょうが……。

 

私を追放した当時、部長であった社長の弟は、現在、専務になっているとの事。20年前の、もう遠い昔の事ですが……。

 

リストラは会社都合ですから、失業保険の給付金はすぐに出ましたし、少ないながらも240万ほどの退職金でしばらくは過ごせました。四十歳を目前にしての追放でしたが、何とかなると私は高をくくっていました。しかし、退職金は諸々の支払いや生活費で一年後にはきれいになくなりました。

 

再就職もうまく行きませんでした。すべてが書類の段階で悉く落とされ、やっと再就職できるまでには、2年の歳月を要しました。40歳ともなれば、もはや世間からは見向きもされないという現実を、私は初めて悟りました。

 

再就職できた会社は、ビルメンテナンスの会社でした。そのビルメンテナンスのという仕事で、「主な仕事は、草取り」と言われ、ああ、草取りくらいなら出きると思ったのが、また甘い考えでした。仕事は、樹木の管理と書いてあったので、樹木に栄養剤のようなものを注射のように打つくらいにしか想像していませんでした。

 

造園とか、造園土木という仕事がありますが、やってる事は造園・農業・土木を合わせたようなもので、ずっと営業畑のサラリーマンをやってきた私には、造園という仕事がどんなものか理解できていませんでした。造園というのは、完全なガテン系の過酷な肉体労働で、怒号・罵声で精神的に叩きのめされる完璧な職人の世界でした。

 

【過酷・きつい・苦しい・危険・きたない】の5Kに、【つらい】のTを合わせた過酷な戦場でした。私はこの会社を一度辞め、今現在、再びまたこの会社に拾われましたが、この仕事がどれだけ過酷で危険かというと、10m前後の樹木に登り、剪定を行いますが、両手を使った剪定では常に転落の危険が付きまといます。

 

三脚という造園用の脚立は上に上っていけば行くほど不安定になり、加えて右か左に微妙に傾いています。バランスを崩せば、倒れます。樹木は平坦な場所に植樹してあるのは稀で、そのほとんどが傾斜した箇所、もしくは脚立が立てづらい箇所に植樹してあるものです。

 

脚立に上っても届かない箇所もあり、落下・転倒した場合は、アスファルトか硬い地面のどちらかに激突です。高所から、そんなところに落下すれば、命の危険にさらされますが、当然のように危険手当などありませんし、事故を起こせば本人の注意不足となります。

 

私はこの会社に通算して16年ほど在籍していますが、土仕事(土を入れた重量のある袋を担いだり、スコップでダンプから土を降ろしたり、土を総入れ替えしたり)の影響と思われる無理がたたって、両肩、両膝、腰と、ひと通り痛めました。

 

丘陵地に立てた脚立が転倒し、地面に叩きつけられた顔のすぐ傍には、地面から露出した木杭が剥き出しになっていた事もあります。ついには左脚の粉砕骨折までやり、(かかとの骨が、ぐちゃぐゃになりました)完治するのに3カ月を要しました。雨も関係なく、ずぶ濡れで仕事をし、余りの寒さと冷たさに(座ると気持ちが悪いので)公民館の軒下で立ったまま震えて弁当を食べた事もあります。

 

雷を伴ったどしゃ降りの雨の中でも仕事をしてきました。草刈機を抱えていますから、より落雷の確立が高くなりますが、リーダーがやめようとはしないのです。まさに狂気の世界です。この時は、仕事の依頼先から、ここは前にも人に落雷した所だからやめてください、という声でやっと解放されましたが。

 

樹木に寄生している害虫に体中をやられ(体中がひどい痒みに襲われる)、蜂に何度も刺され、スズメバチにも追われ、蛇の危険がある箇所にも分け入って仕事をしました。夏も灼熱の地獄で、熱射病もさることながら、作業服は汗でずぶ濡れです。

 

対照的に冬は手足が切れるように冷たく、そんな状態で黙々と鼻水をたらしながらネジリ鎌を用いて手取り除草(草取り)をやっています。過酷な環境で、薄給にしがみつき黙々と仕事をする自分が強制収容所で働かされる囚人か捕虜のように思えます。入社当初の新人の頃、サラリーマンは、新人が独り立ちできるまでは、先輩がサポートについてくれるものです。それはそうでしょう、何も解らない人間に、理解できていない人間にやれと結果を求める方が無理というものです。

 

が、職人の世界は180度違います。【見て覚えろ! 叱られて覚えるのが当たり前!】という古い価値観の世界です。私は毎日、怒号や罵声を3分に1回浴びるように1日じゅう罵倒され、何をやっても烈火の如く怒鳴られる毎日に、ついにはどうしていいのか解らず、動きが止まってしまう事もありました。言わせてもらえば、余りにも理不尽で狂気の世界、そして、まるで戦時中の大日本帝国にタイムスリップしたような感覚で、暴力こそふるわれないものの、言葉の暴力で私の神経はズタズタになりました。

 

その上、手取り15万では生活も困窮を極めましたので、夜間、博多の中洲に皿洗いのアルバイトにも通いましたが、体が続きませんでした。毎日毎日憎しみのこもった目で憎悪の罵声を浴びせられる日々に、もう私は嫌気がさし、違う職場に移りました。詳細は省きますが、そこは月に2回しか休みをくれませんでした(完全に労働基準法違反です)。

 

これとは別に、そこは世間から見れば、明らかに法を逸脱している行為をやっていて、それは私がやめさせたのですが、いままでやってきた事実は厳然として存在し、また商売も汚いやり方であったから、私は、そこも辞めました。

 

ここで経済的傷口が広がります。当然、収入が途絶えたわけですから、(経済的に潤っていた葬儀時代に購入したマンションの)支払いやその他諸々の支払いと生活費がありません。ここから私の転落人生が本格化して行きます。

生きて行く為に、【借金】生活が始まりました。借金は、最初は消費者金融数社や信販会社から始まりました。この時点で、私は50歳目前でした。ハローワークにも通いましたが、表向きは50代までの募集とは書いてあっても、それはあくまでも建前で、企業は若い人間しか採用しません。それも1名、多くて2名。そんな募集に30名、40名の人間が応募するわけですから、どう転んでも中高年が勝てるわけがありません。

 

幸いというか、前に務めていたビルメンテナンスの会社に再び雇用されましたが、今度は契約社員の手取り14万になりました。生活は困窮を極め、更に追い討ちをかけるように【総量規制】が国によって施行されました。これが決定打となりました。今まで借りられていた消費者金融や銀行から借りる事ができず、返済一辺倒に成ったのです。

 

借りては返し、返しては借りるという生活を続けていたから何とかしのいでこれました。それが返済一辺倒になると、待っているのは地獄です。金の苦労をした事のない政治家や役人には弱者の気持ちは理解できない、痛みが解らない事でしょう。

 

借りすぎや自己破産を防ぐ為の政策と国は考えたのでしようが、この総量規制の導入によって、借り入れできない膨大な生活困窮者が闇金に流れた事は厳然たる事実だと断言できます。そして更に精神的な地獄に追い込まれるのです。普通、給料日というものは嬉しいものです。が、低賃金の私には、最大の地獄でした。

 

消費者金融への返済ができず、金利だけの返済交渉に望まねばならないからです。きつい言葉を浴びせられ、なんとか金利のみの返済交渉が成功しても、それだけにとどまらず、過酷な取立て電話は容赦なく他社からもかかってきます。返済一辺倒ですから、14万の給料では、そのほとんどが返済や支払いに消えていきます。それでも足りないのです。

 

支払いはいつも遅延になり、それでも食料は生きて行く為に確保しなければならない、自分の病院(糖尿病)には行かず、親の医療費や薬代も捻出しなければならない、電気や水道のライフラインだけは止められる寸前までに交渉しなくてはならない、喉はカラカラにに乾き、胸の鼓動は高鳴り、精神はいつも緊迫した極限状態で、もうサバイバル生活でした。

 

残された道は自己破産しかありませんでした。しかしマンションを購入する際、母方の叔父に連帯保証人になってもらった記憶があり、それを考えると、支払いの責めは叔父に矛先を転じます。弁護士事務所などに相談しても、答えは、ほとんどが自己破産でした。

 

そうなれば自分は助かるが叔父に迷惑をかけると考えると、また出口の見えない四面楚歌・孤立無援の地獄の中で私はもがき続けました。借金を返す為に借金をする、もはや私は、財政的に破綻した末期的状態に陥っていました。会社からの借金も数え切れません。

 

そのたびに生活態度を改めろ! とか、まるで私がギャンブルでもやっているかのような、そして罪人のような目で見られました。生き延びて行く為に、いろんな事をやってきました。まさに孤立無援・四面楚歌の状態に私は吐き気を催すほど体調を崩して行きました。とにかく生きるか死ぬかという極限状態の中で、私は断崖絶壁に何度も追いやられ、そこに張られた細い綱の上を歩くような生活をずっと続けてきました。

 

緊迫した極限状態で神経はズタズタになり、精神はへとへとに疲労困憊していました。文面だけでは伝わらない、まさに筆舌に尽くしがたい状況です。恥をかき、プライドをかなぐり捨て、生きて行く為、老いた母を守る為、私は必死に綱渡りの人生を歩んできました。弱者は死ね! というのが、この国の本音であり現実です。

 

ギャンブルをしている訳ではない、酒に溺れている訳でもない、女にうつつを抜かして貢いでいる訳でもない、しかしそれでも生活していけない。それが現実です。当然このままではいけない、何とかしなくてはと考えました。この状況を打開できる唯一の手段は、ネットビジネスと考えました。

 

まず最初にやったのがドロップシッピングでした。マニュアルを購入した会員制のクラブにも入会しました。ドロップシッピングは大量に商品を出品してこそ初めてそのリングで勝負できるわけですが、ちまちまやっても結果は出ないので、その大量出品のツールを使わせてもらう為に、そのクラブに入会しました。

 

が、そのツールの使い方を習得するのに半年かかり、やっとこれで稼げると思ったのは私の勘違いでした。ツールが使えるようになったからといって、それは利益が出る事とは別問題なのです。膨大な人間が同じ条件で同じ事をやったらどうなるか? しかも問屋といえるASPも限られているし、扱う商品にも限界がある。言葉は汚いですが、たちまち餌の取り合い、即ち飽和状態になって利益など出るわけがない……。

 

ドロップシッピングは永くやりましたが、ついに利益を出す事はできませんでした。その他、輸入ビジネス、も考えましたが、余りにも障壁が分厚く、インプット(学習)したものをアウトプット(実践)するには到りませんでした。現在、自己破産できて数年経ちますが、それでも生活は困窮しており、依然として断崖絶壁の綱渡り人生は続いています。

 

テレビがデジタル放送になってから、ずっと我が家にはテレビがありませんでした。やっとテレビが(ディスカウントストアで)購入できたのは、四年ほど前の暮れの事です。現在、手取り14万ですが、定年を迎えると扱いで更に低賃金となり、手取り12万ほどになると思います。何とかネットで稼ぐ道を構築したい! そんな想いから、PPCアフィリエイトを勉強しましたが、御存知のようにヤフーにはその広告費として最低3,000円は納めなければいけません。

 

その3,000円でさえ捻出できず、生活費に消えていく状態で、Xサーバーと契約し、ワードプレスにブログをつくり、ASPに登録し、テンプレート作成は、まだ完全につくりきれていない状態ですが、肝心の広告費さえ出せない、前に進めない、こんな状態がもう1年も続いています。

 

加えて、動画でもおっしゃっておられたように、へとへとに疲れきった高齢者には、そんな時間はなかなか捻出するのがむずかしく、88歳の老母の世話をしながらの状況の為、ずっと足踏み状態が続いている次第です。ここで何が私にとっての心の傷かと言いますと、私は、この造園のような仕事を決して好き好んでやっている訳ではなく、むしろ嫌いで嫌いでたまらないのです。大嫌いなのです。

 

しかし、ここしか働く場所がないからです。世間ではボーナスはおろか、保険も交通費もでない低賃金の会社はざらです。それに比べれば、私が勤務している会社は、まだいい方かもしれません。が、私は、こんな低賃金の肉体労働を、やりたくもない大嫌いな仕事を死ぬまでやろうなんて事は毛頭考えてはいません。

 

 

やりたくもない仕事をやって、身を粉にして働いて、言い換えれば、時間を会社に切り売りして、僅かな低賃金をその代価としてもらう……。自分の貴重な時間と人生を、命を奉仕して、ピンはねされた僅かなおこぼれを頂くような惨めで屈辱の人生に怒りと疑問を持たざるを得ません。

 

現在の自分は、本当の私ではないのです。社畜という言葉がありますが、極論すれば、私は会社の奴隷であり、国家の奴隷なのです。若い頃の私は、お金というものは、会社や組織に属して給料という形で頂くもの、稼ぐものと信じて疑いませんでした。

 

 

現在の日本でも、その考え方を頑なに信じている人は多いと思います。どこの会社でも、潤うのは上層部の役員と株主だけです。会社は経営陣と株主の物ではなく、本来、そこで働くみんなの物の筈です。しかし潤うのは、経営陣と株主だけというシステムが出来上がっています。働く事は尊いというプロパガンダを刷り込まれ、単なる労働力の歯車のひとつでしかありません。

 

私の会社で言えば、合理化によって浮いた人件費は、社員に還元してあげるのが本当でしようが、そんな事はしません。現在は罵倒したり、怒声を放ったりする古い価値観を持った職人気質の人間は減り、私が仕事の計画と立案をして作業を進めていますが、仕事は倍になっているので、期日までに終わらせないと契約不履行という事になりますが、会社は、そんな下で働く人間の焦り、苦労、哀しみなど全く考えません。

 

またリーダー的な若い連中も若いのに価値観が古く、仕事をやりきった後の達成感がどうのとか、忙しくなるよとか嬉しそうに明るい顔でいうくらいです。仕事は増えに増えても低賃金のままなのに、彼等は何も疑問を感じないのか? こんな会社で、生産力を上げる為に国家が作ったこんなシステムの中で、一体、君達の人生に何が残るのか? 大切な家族に、一体何を残してやれるのか? 時間を切り売りして、人生を差し出して、そんな低賃金のままいいように使われて、人生を終えてそれでいいのか? そんな疑問と憤りを感じます。

 

私は国家の奴隷ではないし、もうすぐ60歳になります。お金の苦しみから解放されて本当の自分を取り戻し、残された人生を、やりたい事、やらなければならない事にフォーカスしたいのです。

 

もうベクトルは決まっています。私はパソコンで小説を執筆するのが好きで、歴史の勉強をしたり、落ち着いて読書をしたり、そして少しのボランティアをして静かに残された人生を過ごしたいのです。

 

生活の為とはいえ、老いた母を守る為とはいえ、俺はこんな処で一体何をやっているんだろうと、日々過ぎ去っていく中で、心が空しくなっていきます。もう人生の晩年に差し掛かり、20年近くも断崖絶壁に追いやられた如く、経済的困窮に喘ぐ屈辱と恥辱に塗れた綱渡りの人生を送りながら、こんな給料では老いた母はおろか、自分自身さえ守れない……。

 

表現は不適切かも知れませんが、海の魚が濁った沼でもがいているようで、生活に困窮しながら、やりたくもない大嫌いな仕事をしなければならない悲しみと苦悩と屈辱の人生が、私にとって最大の心の傷です。

 

私は、もはやどこかの条件のいい会社に転職しようとか、人や組織に雇われようとかは考えていません。だからこそ、10年ほど前からネットビジネスで生活できる仕組みを構築しようと諦めずに今日まで来ましたが、残念ながら、いまだネットから収益をあげられた経験がありません。

 

然りながら、パソコンとインターネットは自分に残された最後の武器という気持ちは心の中で生きています。ですから左脚の踵を粉砕骨折した時も、(持っていたパソコンがwifiに対応できなかったので)担当医から外出許可をもらうと、タクシーで自宅に帰り、執念で車を運転して(右脚は生きているので)ハアハアと荒い息を吐きながら、松葉杖をついて中古のパソコンを買いに行ったくらいです。

 

まさかこんな荒行をやらかすとは担当医も想像していなかったでしょうし、正直に申告していれば、外出の許可など出なかったでしょう。私は、じっとしていられなかったのです。今現在、私は契約社員という立場で低賃金の肉体労働者であり、年収240万程のワーキングプアです。(ワーキングプアの正式な定義は、収入200万以下でしょうが)

 

自分に最も向かない仕事を、そして大嫌いな仕事を、食べていく為だけに、自分の時間=人生・命と引き換えに、手取り14万の薄給を得てサバイバル生活を送っている身です。

 

これを書いている現在でも、数日後の期日までに料金を払い込まねば、送電停止になる身です。また何人もの人間に頭をさげて借金の申し出をしなくてはなりません。

 

親類が入院すれば見舞いに包む金もない。親戚に不幸があればそれに包む金もない。電気もガスも水道も、支払いはいつも期限ぎりぎりの段階。これらはすべて借金しての支払いです。為に、支払いは常に遅延ぎみになり、どうやって金を工面しようか? どうやって生活していこうか? と、心が安らいだ日はありません。

 

こんな惨めで屈辱の人生は、私が望む人生にあらずして、本当の私の人生ではないし、本当の自分ではない!自分は沼の魚ではない、海の魚だ。誰だって幸せになる権利はある筈だ。なのにどうしてこんな卑屈な思いをして小さく縮こまっていなければならないのか?

 

現在の日本は、自己責任とかヘイトスピーチして何が悪いという風潮が堂々とまかり通る世の中です。それに同調する人々も増えています。弱者の悲しみや金の苦労も解からぬ権力者が、その権力に同化する勢力が、この世の仕組みを自分達の都合のいいようにつくっているのですから、そして民は、それに何の疑問も抱かずに、それが当たり前だと思っているわけですから、ほんのひと握りのおこぼれを貰って、生活が苦しい苦しいといいながら、一生を終えて行くのです。

 

私も、6月で定年です。7月からは嘱託扱いの手取り12万程の過酷な現実がすぐそこまできています。私とて、こんな強制収容所の如き場所で、過酷な肉体労働を続ける気はさらさらありません。無理をして、夜中の1時2時まで頑張っても、朝は5時には起きなければなりません。松田さんが動画で言っておられたように、若い時とは違い、その反動は必ずきます。

 

仕事が終われば、へとへとになって、買い物をし、家に帰れば主婦の仕事と老母の面倒、それから自分の時間ができるのは、よくて1時間……。60寸前の私のようなジジイには、正直きついものがあります。

 

超薄給という安い資本力で労働力を確保できる会社は、合理化の末に上げた利益を社員には還元せず、上層部と株主のみが潤う仕組みです。合理化のしわ寄せは、私達末端の者が過酷な現実として被らねばなりません。私がいる部署の現場の人間を(私も含めて)、本社の若いリーダーは、陰で、みんなバカだからと笑っています。その程度の会社です。

 

今はパソコンとインターネットで人生が変えられる時代だと私は考えています。本当の自分に戻って自分らしい人生を送りたい! そして自分が生まれてきた使命を果たしたい。生きた証を残したい。今も書いた小説はありますが、もっともっと書きたい事はたくさんあるし、それをE-bookにした本を読んでもらいたい、そしてほんの数人でもいい、喜んでもらえたら、そして私のメッセージから何かを感じとってもらえたら、私は嬉しいし悔いはありません。

 

が、現在のような生活を送っていては、国家の奴隷、会社の家畜(社畜)として惨めな一生を終わるだけです。私はこんな人生を送る為に生まれてきたわけではないし、そうするつもりもありません。

 

20年近く続いている惨めで屈辱の綱渡り人生……支払いに怯え、生活に困窮する過酷で惨めな人生に終止符を打ち、会社や組織に属さずとも、パソコンとインターネットで、自分の食い扶持は自分で稼ぐ! ようになって、経済的自立を確立し、本当の自分を取り戻して本当の人生を歩く! 私は、心からそう考えています。

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