七面倒くさいことを考えるのは年のせい?自分を否定すると世の中が上手く進む

人には意外なもので救われ、その存在を感じながら自分自身の存在を其処にあるとする考えはどのようなものなのでしょうか?

 

思い込みとか、自己満足?と言うようなそんな簡単な単語で表現するものではないのでしょうが、人の心の拠り所になっているのは間違いの無い事実です。

 

過去の歴史の中と言うより、昔話の中には意外な存在があるように書かれています。

 

何気ない生活の営みの中に仕組まれていると言うのが正しい理解の仕方かも知れませんが、時としてそれが不幸に感じたり、幸せに満ち溢れていたり、きれいと感じたり、汚れていると感じたり、何も感じなかったり。その時々の自分の身の置き方で、感じ方は人それぞれだと思います。

 

何かを中心にして自分の生活が成り立っていると言うか、回っていると言うか、支配されていると感じるのか。

 

自分の力で生きているのか? 

 

何かに生かされているのか?

 

何のために生きているのか?

 

何かをするために生きているのか。

 

自分は何が出来るのか?

 

何かが出来るのか?

 

それは 自分のためなのか?誰かのためなのか? 等と七面倒くさいことを考えてしまうのは年のせい?

 

若いころ考えもしなかったことを、面倒くさい程真面目に考え、実行する。

 

でも時々失敗もするがいい結果になることもありました。

 

いい結果のときは「皆さんのお蔭です。」悪い結果のときは 「不徳の致すところでございます。」とまあこんな切り崩しでごまかして、はっきりしたことは何一つとして自分の口からは言いません。

 

誰かのお蔭です とか 皆でで成し遂げたとか。ここで 我を出してしまうと、周りは急に冷たい風を吹き込ませてきます。

 

自分の力を否定することで、世の中上手く進められる事も学びました。自分で成し遂げたと思いながら、それを否定する。

 

では 逆に失敗したときは だれのせいかを 知りながら自分のせいにする。

 

何者かに頼りながら、物事を進める。誰かがちゃんと見ていてくれるからと自分に言い聞かせて生きる。

 

みんな その誰かを信じるから 生きていける、何があっても次に進める。

 

倒れても、手を差し伸べて救っていただける。どうしようと迷ったときは、立ち止まり 思いとどまるか、背中を押されるか?自分で決める前にもう一度考えを整理することで 答えを導いてくださる。

 

手で触れることも出来ないし、姿を見ることも出来ないのですが、信じる心が存在する限りそこにいてくれます。

 

何時の時代も、大切に崇められた存在です。

 

こころの拠り所というべき存在です。

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